溺れる理由

――こんなことを許してしまうつもりはなかった。なかった、のに。

「だめ、あ……っ」
 さっきから拒否の言葉を繰り返しているのに、ちっとも力が入らない。
 力が入らないのは声だけではなかった。精一杯、彼の身体を押しのけようと腕を突っ張り、力を振り絞っているのに、その手はあっさりととらえられてしまう。
 掴まれた手が熱い。
 そう、ロイの手はひどく熱かった。
 手首をぐっと掴まれると、火傷してしまいそうだった。
 首すじにかかる息も、まるで熱病患者のように熱く、早い。
 伝染、してしまう。
 リザは身をよじらせて抵抗したが、体を這い回るロイの手や、のしかかる体重からは逃れられなかった。
「リザ」
 低く掠れた声で呼ばれ、心が震えるのを感じた。
 どうして、こんな――。
 リザはかたく目を瞑った。

***

「大佐はやっぱり雪の日も無能なんスか」
「無能って言うな、しかも『やっぱり』とはなんだ!」
 絡むほうも絡むほうだし、いちいち真っ赤になって怒るほうも、怒るほうだ。
 いや、ロイの顔が赤いのはアルコールのせいだろうか。
 リザはさっきから呆れ顔で、上官とハボック少尉をかわるがわる見比べていた。
 ことの発端は数時間前。
 きっかけは思い出せないくらい他愛のないことだった。
 ああ、そうだ、司令部の大掃除だ。

 司令部では定期的に棚という棚をあけて、いらない書類やら何やらを捨てることになっていた。
 機密書類は厳重に管理されているものの、それ以外の雑多なものは、わりと適当にあちこちのキャビネットにしまいこまれている。そのほとんどが捨ててしまってもかまわないもので、マスタング組の面々は、大掃除のときに決まって部屋の中央に据えられる巨大なくずかごに、どんどんごみを捨てていった。
 そろそろひと段落つくかというときに、部屋の隅の目立たないところに置かれていた木箱をあけたハボック少尉が、素っ頓狂な声を上げた。
「なんだぁ、コレ」
 一同が彼のほうを振り向くと、ハボック少尉はウイスキーのボトルを持ち上げていた。
「酒ですか?」
「なんでこんなところに……」
「誰かが宿直のときにこっそり飲んでいたんでしょうか」
「ダメだろそれ!」
「俺じゃないぞ」
「私でもありませんよ」
 全員が激しく首を横に振っていると、ロイが言った。
「以前この部屋を使っていた奴のものじゃないか」
 勤務中に隠れて飲酒をするような不届き者は自分の部下にはいないとかたく信じている上官はうるわしい。
 少なからず感動をおぼえたらしいハボック少尉が、
「ふむ」
とうなった。
 実のところロイは、犯人さがしなどして、余計な問責だの懲罰だのの手続きが生じるのが面倒くさかっただけなのだが、それを見抜いているのは、どうやらリザだけらしい。やりとりの一部始終を見ている彼女が、そっとためいきをついたのをロイは視界の端にとらえていた。が、リザは特に何も言わなかった。どうやら見逃してくれるらしい。
「で、どうします、これ」
 ハボック少尉が手にもったままの瓶を顎で指して訊いた。
「捨てるしかないだろう」
「あー……そうッスね。ていうか、なんか大量にあるんですけど」
「え?」
 少尉の言葉に木箱をのぞきこんだフュリー軍曹が驚きの声をあげた。
「この箱いっぱい、ぜんぶ酒ですよ」
「何だと?」
 思わず一同は箱に歩みより、中を確認する。
 フュリー軍曹の言葉のとおり、箱の中には瓶につめられたウイスキーが数十本入っていた。
「あ、わかった」
 呟くように言ったのはファルマン准尉だった。
「なんだ?」
とロイが訊くと、彼は答えた。
「密造酒じゃないでしょうか……もう十年近く前になりますが『無許可で酒を造っていた業者を摘発した』という記録を思い出しました」
「ほう、じゃあこれは、その際に没収した酒なのか」
「おそらく」
 うなずくファルマン准尉に、ロイは重ねて訊いた。
「この密造酒、品質は?」
「それが裏で広く流通していただけあって、かなりのものだったらしいですよ」
「ほう」
 と、ここまで一言も挟まなかったリザが、にっこり微笑みながら訊いた。
「大佐? まさか、ちょっと飲んでみようなんて思っていませんよね?」
「うん、思っているが、それが何か」
 平然と答える上官に、リザは言葉を失った。

 そして現在に至る。
 結局のところ、没収した密造酒を飲んでみる、などという暴挙に出たのはロイと、誘われたらノーと言えないハボック少尉の二人だった。
「どうなっても知りませんよ」
という台詞とともに、ブレダもファルマンもフュリーも早々と逃げ去ったので、リザは仕方なく二人を見張るような、守るようなおかしな状態になってしまった。
 もうとっくに勤務時間外ではあるのだが、やはり司令部内での飲酒は、ほめられた行動ではない。
「ふたりとも、もうそのへんで」
とリザがたしなめると、ロイはにっこりと微笑んで言った。
「中尉も一杯やらないか?」
「まさか」
 にべもない部下に、ロイは相変わらず、にへにへと笑っている。もともとそれほど笑顔を浮かべることのない人なのに、このしまりのない顔ときたら。リザは、思いきり渋面をつくって繰り返した。
「もうそのへんになさって下さい!」
 声に含んだ怒気にひるんだのか、ようやくハボック少尉がグラスを置いた。
 ハボック少尉にしてみれば、つねづねマスタング大佐がどれくらい酒に強いのか知りたかったから、ちょうどいい機会だと思って誘いに乗ったのだ。
 いつのまにやら、飲み比べのようになってしまったのは想定外のことだったが、負ける気はしなかった。
 実際、二人で一本ボトルをあけたところだが、ハボック少尉は、少しふらつく程度の酔いしか感じていなかった。
「大佐ぁー、ホークアイ中尉がおかんむりですよ」
「ああ」
 ハボック少尉の言葉に、ロイも飲むのをやめた。
 リザはすかさずふたりのグラスをさっさと片付け、ふたりに顔を洗ってくるように指示した。

 それから数十分後。飲酒運転をさせるわけにはいかないので、リザがハボック少尉を自宅へ送り届けた。
 車の扉を閉め、ハボック少尉はリザに礼を言った。
「ありがとーございました」
「少尉、大丈夫?」
「ボトル半分ぐらいなんで、ぜんぜんヘーキっス」
 足元はややふらつき、口調もちょっと間延びしたトーンではあるが、酩酊しているというほどではないらしい。
 破天荒に見せかけて、この若者は冷静に状況を判断して自制することができるのだと、リザは感心した。まぁ、それだからこそ、ロイが彼を部下に選んだのだろうけれど。
 それじゃまた明日、お疲れさま、と声をかけてからリザは車を発進させた。
 助手席のロイは、車に乗り込むやいなや、目を閉じてしまった。リザがハボックを降ろして会話している間も窓すら開けなかったところを見ると、どうやら眠り込んでいるらしい。こんなに飲んで大丈夫なのかしら、とリザは表情を曇らせた。
 信号待ちのあいだ、それとなく彼の横顔を見つめる。
 本人が「重みが出ない」と悩んでいる通り、年齢よりも若く見える顔立ち。
 いや、実際彼はその地位にしては若すぎるほど若いのだ。
 さまざまな困難を乗り越え、問題をねじ伏せ、上へ行く。そう決めた彼の両肩にかかる重圧のことを思い、リザはそっと息をついた。今日、密造酒をちょっと飲んでみるなどという暴挙を許してしまったのも、どこかで彼にガス抜きをさせたい、という思いがあったからかもしれなかった。

――だからといって、ここまでのことを許してしまうとは、リザも予想だにしていなかった。

 家に着きましたよ、と声をかけても目を覚まさない上官を、なかば担ぐようにして自宅に運び込み、どうにかベッドに寝かせた。そして自分はさっさと帰るはずだった。だったのに。
「あ……っ!」
 ぐいと強く腕を引かれてベッドに倒れこんでしまったのが運のつき。
 無言のままロイに体中をまさぐられ、あちこちにキスをされる。リザはひどく動揺し、身をよじらせて抵抗した。
 仮にも軍人であるし、女性であることが弱点となってしまわないために、日々鍛錬してきたつもりだった。けれど、酔いのせいかまったく手加減というものをしない男相手には、どうしようもないことをリザは知った。
「やめ、たいさ、」
 いや、違う。
 本気で抵抗をすれば……そう、目を突くなり股間を蹴り上げるなりすれば、逃げられる。でも、リザにはそれができなかった。
 痛いほど抱きしめられ、ひきちぎるようにボタンを外され、素肌を掴むように触れてくる手の熱さにリザは息をのんだ。
 抱かれるのがこれが初めてではないということも、リザの抵抗を弱めた。
 それでもまだどこかに残る理性で、だめです、だめ、と呟いてみても、まったくロイには届いていないようだった。
「リザ」
 ロイが囁く。耳元から流し込まれる熱い吐息に、背筋がぞくりと震えた。リザはぎゅっと目を瞑った。
 これ以上抵抗しないことを感じ取ったのか、ロイの力がやや弱まる。それでも性急さは変わらず、狂おしげにあちこちを愛撫し、唇を這わせた。
 欲望というよりも、渇望に近い仕草。
 こんなにも強く求められて、拒めるわけがない。
「そうだ、中尉」
 リザの心の声が聞こえたかのように、ロイが呟く。
「きみは応えるしかない。酔った上官の狼藉にも、耐えるしかないんだ」
 その言葉に、リザは全てを悟った。
 リザが流される理由を与えるために、ロイはわざと酔ってみせたのだと。
「……!」
 漏れそうになる嬌声を、歯を食いしばってこらえるリザの顎をつかみ、ロイは言う。
「可愛い私のリザ」
 いったいどういう意味でそんなことを言ったのか、確かめようもないままに、リザは唇を奪われた。
 深い深いキスに溺れた二人に、どんな罰が下るのかは、まだ誰も知らない。