任務終了、その夜
厄介な仕事が一つ終わった。
リザはそう思いながら車に乗り込んだ。
潜入捜査はこれが初めてではなかった。いくつかある偽の経歴のうち、上司が選んだのは『エリザベス』。リザもそれがふさわしいと思ったから、すんなりと承諾し、着任から今日までその人格を演じきった。
それも、今日で終わりだ。
「ご苦労だったな」
ハンドルを握るマスタングから労われ、リザは「いえ」と短く返した。が、ふっと笑みを浮かべ、
「いいのよ。他でもない、あなたのためですもの」
と言ってみた。すると、マスタングはにやりとして、
「君には頼ってばかりだ、エリザベス。今度、きちんと礼をさせてくれたまえ」
と答える。
信号待ちで停車した隙に、マスタングは助手席のリザをちらっと見遣る。タイトなシルエットのドレス、華やかに結い上げた金の髪、そして唇を深紅のルージュで彩る彼女は、間違いなく『エリザベス』だった。
「そうね、じゃあお言葉に甘えて」
「何がいいかな。おいしい食事か、それとも新しいアクセサリーにしようか。もちろん両方でも構わない」
「まぁ、優しいのね。でも、アクセサリーはもうたくさんいただいたから、結構よ」
もはや『エリザベス』を演じ続ける必要はないのに、ふたりは芝居がかった会話を続けていた。
マスタングが『エリザベス』を演じる自分を見て、どこか楽しげにしているのは、リザにとっても不快ではなかった。むしろ、リザ自身もそれを面白いと思うようになっていた。
「そうかな。まだ君の指はたくさん空いているようだが?」
マスタングはそう言いながら、リザの手に軽く触れた。その指には、一つも指輪がはまっていない。
(わかっているくせに)
リザは答えに詰まってしまう。
潜入捜査中、いつ隠し持った銃を抜くかわからないのに、指輪のたぐいをつけるわけにはいかない。たかが指輪ひとつで狙いが狂うようでは、『鷹の目』の名も返上しなくてはいけないかもしれないが。
「エリザベスは、指輪が嫌いかな」
マスタングの言葉に、エリザベスは「ええ、まあ」と曖昧にうなずくことしかできない。
信号が青になり、マスタングはリザの手を放してまたハンドルを握った。
それきり、ふたりが口をきくことはなかった。
「シャワーどうぞ」
リザに声をかけられたマスタングは、立ち上がった。
彼女を家まで送り、そのまま成り行きで泊まっていく。いや、本当は成り行きなどではなく、最初から計画していた。
リザはマスタングのそんな望みに、もはや「いいです」とも「ダメです」とも言わず、『疲れているので、先にシャワーを浴びさせていただきますね』とだけ言った。
「……」
寝巻きにしているらしい大きめのシャツ一枚をまとったリザを真正面から見たマスタングは、思わず彼女に見とれてしまった。
化粧を落とし、濡れた髪をタオルで包み、ほっとした表情を浮かべるリザには、『エリザベス』の余韻は欠片も残っていない。
いつもの、リザ・ホークアイ。
軍服に身を包み、凛とした表情で自分に付き従うときのリザとも違う、家にいるときだけのリラックスしたリザ。
そう思った瞬間、マスタングは彼女を強く抱きすくめていた。
「な、んですか」
突然の抱擁に、リザが戸惑ったような声を出す。
リザの動揺など一顧だにせず、マスタングはそのままリザに口づけた。
「ん」
触れるだけでのキスでは当然飽き足らず、深く舌を絡めると、一瞬だけ抵抗があったものの、すぐにリザは受け入れてくれた。
ちゅ、と音を立てて離すと、リザは恥ずかしそうにうつむく。
「嫌かな」
今さら聞いても仕方ないのに、マスタングは問う。
「急だったので驚きましたが、いやでは……」
これ以上ないくらい可愛らしい答えに、マスタングは心の底からリザを愛おしいと思った。
このまま押し倒して、とも思ったが、これ以上ガツガツして本当に嫌がられてしまっては元も子もない。
マスタングは、
「シャワーを浴びてくるから、待っていてくれ」
と低い声で囁くように告げた。
その言葉の意味するところを敏感に察知して、リザはさっと頬を染め、こくりとうなずいた。
マスタングは『エリザベス』という存在に愛着を抱いている。だから、彼女との会話もデートも、いつも心から愉しんでいた。
もちろん、『エリザベス』を抱くことも。
だが今、彼はこんなことを考えていた。
(いつもの彼女のほうが……そそられる)
決して品が良いとは言えない思考をいったん振り払うため、マスタングは思い切り蛇口をひねり、シャワーを頭から浴びたのだった。
終