臆病で勇敢な約束
もしかしたら手に入るかもしれなかった、ささやかな幸せを捨てて。
途方もなく大きく、非現実的な夢を選んだ。
いや。夢、などという美しいものではない。
野望か、あるいは、ただのエゴと言えるかもしれない。
それでも、多くの民が平穏に暮らせる世の中をつくることができたらと。そう願って、俺はこの銀時計を手にし、軍服に袖を通した。
辞する前にもう一度、リザの姿を目に焼きつけておこう。
そう思っているのに、いざ別れのときが近づくと、彼女を直視することができなかった。
やるべきことはすべて済んだというのに、いつまでも去ろうとしない男のことを、彼女は不審に思っているかもしれない。
「マスタングさん……」
呼ばれて俺は、のろのろと顔を上げた。
まず目に入ったのは、彼女の小さな肩だった。
たったひとりの肉親を亡くし、寄る辺のなくなった少女の肩。
手を伸ばし抱き寄せたい衝動に駆られたが、ぐっと耐えた。そして、口をひらく。
「そろそろ、行くよ」
「はい」
「何かあったら、いつでも連絡しなさい」
「はい」
こくり、こくりとうなずく彼女は、やはり心細さを感じているようだった。
いっそ彼女のほうから引き留めてくれればいいのにと、とんでもなく女々しいことを考えた。
行かないでくださいと、もし彼女が一言でも言ったなら。
いや、馬鹿げている。彼女がそんなことを言うわけがない。
自分のふがいなさを棚に上げて、責任転嫁したいだけだ。
彼女がどれほどの勇気をふりしぼって、背中に刻まれた錬金術の秘伝を自分に見せたのか。
その悲壮なまでの決意を知ったあとで、自分だけが臆病者でいることは許されない。
自分の夢を信じて、すべてを託してくれた彼女の思いに報いるためにも、今、俺は去らなければならない。
「さよなら、リザ」
「……お元気で、マスタングさん」
とうとう彼女の目を見つめることのないままに、俺はホークアイ家を去ったのだった。
そして。
「お久しぶりです、マスタングさん……いえ、今はマスタング少佐とお呼びするべきでしょうか」
数えきれないほどの人間を焼き尽くし、屠ってきた。
どんなに凄惨な光景を見ても、もう何も感じなくなっていた。
「覚えておいでですか」
そんな俺がいま見ているのは、一番見たくなかったものだった。
ここにいるはずのないひと。
「……忘れるものか」
リザの眼差しは昏く淀み、荒みきっていた。
頬のあたりにわずかに残る幼さが、あの日の面影を残している。それがかえって悲しかった。
俺はいったい、何を。
答えは出ないままにイシュヴァール殲滅戦が、終わった。
勝利の喜びなどかけらもない。虚脱感しかなかった。この戦いのあとのことなど、まだ考えることができないでいた。
が、リザがもしこのまま軍に属することを選んだとしたら、決めていることがひとつあった。
それは彼女を自分の副官とすること。
もう引き返せないところまで来ているのなら、どこまでも連れて行くしかない。
これもまたエゴだと、わかっていた。
あの日、彼女を置き去りにしたのと同じ理由で、今度は彼女に泥の河を渡らせようとしている。
「ホークアイ少尉」
呼びかけるとすぐ、彼女はこちらに向かってまっすぐ歩いてきた。
訓練を受けた者にしかたてることのできない規則正しい足音が、間近でぴたりと止まる。
「お呼びでしょうか」
俺は手袋をはめた手で彼女の肩に触れた。
リザの肩はやはり、小さかった。
あの日、ためらうことなくこの肩を抱き寄せていたなら。
君のことをずっと想っていた、と告げて。
いつか迎えにくるから待っていてくれ、というありきたりな約束で、彼女をあの町にとどめておけたのかもしれない。
「……中佐?」
沈黙している俺を訝しげな表情で見上げ、彼女が呼んだ。
肩を掴んだ手に力をこめ、俺は言った。
「……死ぬなよ」
彼女は唐突な俺の言葉に、ほんのわずか目を見開いて驚きをあらわしたが、すぐに、
「努力します」
と答えた。俺は即座に言う。
「努力では駄目だ。これは命令だ」
「……アイサー」
ぴしりと敬礼。軍人は、どんなに理不尽な内容であっても、上官の命令には従わねばならない。それをしっかり理解している彼女は、実に優秀な副官だった。
シチューを焦がしてしまい、泣きべそをかいていたリザはもう、どこにもいない。
「よし。もう行っていい」
俺がうながすと彼女は踵を返した。
そのまま歩き去るかと思いきや、背を向けたまま俺の顔は見ずに訊いた。
「その命令はいつまで有効ですか」
俺は少し考えてから、答えた。
「私が生きている限り、だ」
振り向いたリザの口元が一瞬だけ緩んだように見えた。
めったに見ることのできない笑顔を心に刻もうとすると、彼女の言葉が耳に飛び込んできた。
「では、中佐も死なないでくださいね」
「……承服した」
俺の答えを聞くと、リザは来たときと同じくたゆみない足取りで歩き去った。
こんなのは、意味のない約束かもしれない。
が、いつか互いのあずかり知らぬところでゴミのようにくたばる日がきても、せめてこの約束を思い出すことはできるだろう。
そして万にひとつの幸運を拾って二人が生き残ることができたら、今度こそ、あの日かわすことができなかった約束をしよう。
彼女を抱きしめ、想いを告げ、そして――いちど手放してしまったささやかな幸せを、胸いっぱいに満たすのだ。
終